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いろんな企画系の仕事をしている30歳の男(ニーヨンロク)が、買ってよかったものとかうにゃうにゃ書きます

野坂昭如先生に想いを寄せて

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僕にとって昭和のスターといえば、寺山修司・中島らも・野坂昭如だ。その最後の一人である、野坂先生が亡くなった。

 

 


 僕は野坂昭如世代では間違ってもない、テレビに出ていたのなんて数回しか見た記憶がない。政治家だったことも知らないし、歌手だったことも知らない。というか殆ど何も知らないのだ。つまり僕は、「小説家野坂昭如」しか知らないのだが、彼が書く作品が途方もなく強く心に残っている。


 小説を評価する上で、人物造形をはじめに、軸は無数にある。そのどれかが強烈に突き抜けている作品は、多くの場合僕らの記憶に残る。野坂はメッセージ性もさることながら、類まれなる独創的かつ刺激的な文体が特徴だった。文体とは人間でいうところの細胞でありその集積である外見だ。外見がその人を表すように、文体も書き手を表す。野坂は15歳の頃に終戦を迎えた、つまり第二次大戦経験者なのだ。その戦争で、妹を失う悲痛な体験をしている。幼い頃に受けた強烈で過酷な試練と、その当時日常でつかっていた関西弁がまぜこぜになってあの文体は生まれたんだと思う。


 一般的に口語を文語にしたもの、さも喋っているかのように感じられるものを饒舌体と呼ぶ。遡れば織田作之助などが饒舌体の始祖かと想像するが、野坂の饒舌体ほど人を惹きつけるものはない。止めどなく湧き出る岩清水のように言葉は連綿とつなげられ、息継ぎする暇もろくに与えずにそれは四万十川のように長大な文章となる。そのうねりのある文章には、ないまぜになった野坂の後悔や苦しみ、歓びがこれでもか!というほどに乗っけられている。文意に乗っているのではない、文章つまり「もじづら」に乗っかっているのだ。
歌詞の意味は汲み取れないけれど、メロディだけで共感できる音楽がある。野坂の作品はそんな音楽によく似ている。


 この数年はずっと闘病生活だったらしい、それでも執筆は止めなかったとニュースで読んだ。野坂の新作がこれから出ることはないが、たくさんの言葉を彼は残していってくれた。これから来年になるまで、改めて野坂を読みなおそうと思う。そして野坂のような、感情を意味にではなく、文章に乗せられる。そんな人に僕はなりたい。

 

 

 

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